孤独だけど人と接するのが怖い、そんな人を理解出来ない人は多い。
貧困にある人や分かりやすい障害を抱える人は周りの理解を得やすいかもしれない。
しかし、この日本社会には、人知れず、想像を絶するQuality of Lifeの質の低下がある人々がこの世にいると僕は気が付いたのでそれを今日、伝道師としてこの記事で伝えようと思う。
この社会で差別、偏見、の話は出ているけど、喋らない人間は未だに平絶と差別をされている気がする。
しかも、その範囲は果てしなく広く、まさか、信じられないと思うかもしれませんが・・・福祉の社会や、お客として訪れる店、ですら差別されてしまうかもしれないという、そんな脅威に日々脅かされる程だと思っている。
この世の不条理を暴露します。
強者は喋る人なので、喋れない人はいつも脅威に晒される事になる
銭湯では人と会話をするのを楽しみにしている人もいる
その人にとって銭湯で無言でいる人は理解できないヤツ、と毛嫌いする存在なのかもしれない
一方、喋るのが苦手で人にトラウマがある人にとって銭湯とは気力を何とか回復させたい場所なのだ。
出来れば人の脅威には晒されたくはない。
そこでも、両者は理解し合う事が出来ない。
しかし、いつも勝つのは、お喋りが得意な人々だ。
彼らは集団化して多数になるので、いつも孤立している喋るのが苦手な人より権力があるからだ。
結果、喋るのが苦手な人はいつもどこか、よく喋る集団に脅えて生きて行くことになる。
これでは、いつ病気になってしまっても可笑しくはない程のストレスを日々受ける事になってしまう。
床屋、美容室でも同様の脅威に晒される
大多数の喋る人のための接客態度を店員が取る為です
客だとしても、店員にひどい扱いをされてしまう事すらあります
美容室とかって話すのが接客だと思ってるけど、結果的に話すのが苦手な人とか仕事とか聞いたりして、変な反応する人とかプロと言えるのかな?
— キリン@社交不安 (@kimuzonw) 2022年5月14日
自分なんて「普通にしてろ」とか言われたりした事あるから、髭剃りとか軽いトラウマあるし
皆んなが喋るのが好きじゃないのに聞いてくるのがサービスて?
世の中には緘黙症と言って喋りたくても喋れない人だっているんです。
そんな人も居るのに、床屋では注文できないと、キレる店員すらいます。
世の中に理解されていない障害て辛すぎますよね
緘黙の本も出ているようです↓
上流と下流は分断していて理解し合えない
想像を絶する底辺から脱出する事が出来ない人々を理解する事が出来ない人々がいる、底辺と言われる人を更に超えるQuality of Life(クオリティ・オブ・ライフクオリティー)の生活をし続けなければいけない人がこの世にはいる
この話は、もはやかなり有名になっていると思いますが
格差社会があって、お金持ちの子供が私立の学校に行ったり、塾通いしたり、当たり前のように海外旅行に行ったりして同じような水準の友達と青春時代を過ごして大人になっていく、噂ではそんな世界線が日本社会にもあるらしい
そういった世界線を生きる人々とは別に、貧困を生きる人々もいる
その両者はお互いに分断していて理解出来ないし、お互い違う世界線で交わる可能性は少ない
自己否定感を「心のガン」と表現している著者の本を読んでいます
— キリン@社交不安 (@kimuzonw) 2022年5月14日
上流階級で育った人は優越感や成功体験を積み重ねやすい
下流階級で育った人は劣等感や挫折体験を積み重ねて自己否定感を抱きやすい
教育格差が人間関係や後の仕事に直結しやすいそれどころか対人恐怖になれば友達0人になり引き篭もる
参考になった本↓
緘黙やDNAを超える事は容易ではない
ただの底辺ではない人もいる
それは、貧困などに緘黙や社交不安や発達障害が加わってしまい、苦痛に満ちた学生生活を送り続けなければいけず、友達も出来ず、部活にも入らなかった人々です
バイト経験も面接が出来ないからすることが出来ず現実逃避をするしか術が無い
よく引き籠りを特集する小説などで親が金持ちが多いけれど、現実は貧困の方が多いのではないだろうか?
例えばこの本↓
- 価格: 1980 円
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裕福だから引き籠るのではなく、劣等感や恐怖が肥大化して身動きできない人の方が多いと思うのです。
親の期待でガンジガラメになる引き籠りもいれば、貧困や発達の問題で苦しんでいる引き籠りもいる。
世の中は複雑怪奇に出来ているのです。
親が下流でも貧しさをバネに成功した人はいる
— キリン@社交不安 (@kimuzonw) 2022年5月14日
しかし、そこに対人恐怖、発達障害、緘黙が加わっても尚、悔しさをバネに成功しろと言えるのだろうか?
人を知らずに、綺麗な夢を語る事は出来ない
福祉の社会でも強者は喋る人だ
何処まで行っても弱者になってしまう、社交不安や喋る事を苦手とするタイプの人々。
では福祉の世界に行けば、手厚く支援されるのではないか?
だって、福祉は社会で上手く行かない人を支援するべき場所だから。
その考えも通用しないのが人間社会なのだ!
喋る人には情が出てくる支援者も、殆ど話さない利用者に対しては次第に支援が薄くなっていく。
そこに、他の利用者とのすれ違い、そして、一般社会のような恐怖も出てくる。
また、支援者も、喋りたくても喋れない、という症状は理解していない事が多い。
なので普通の社会のように「話したくないのか」とか「こういう症状はなかなか治らないんだよねぇ」とか雑に扱う人すらいるほど。
ボランティアと言われる人に
「何か、実は強いとか、何か、取り柄はないの?」
とか、特技、取り柄、お喋り上手、な人に比べると劣等感を植え付けられる扱いをうけてきた。
こうなってくると何処に救いがあるのか分からなくなっても可笑しくはない。
まとめ
全てを自己責任で片付ける事も出来る
でも、何か引っかかる
緘黙になるのは本人の責任なのだろうか?
人々はDNAや環境を容易には超える事は出来ないだろう
全ては自己責任ではないて言う事も出来るんじゃないかと思った